旅日記3インド

旅日記 バーションアップのお知らせ

 山崎大悟氏によるイラストを 『インド ハイダラバード 遺跡で』 に

描いていただきました 皆さん アジアを旅したら女性姿の遺跡を注意して

見てください オッパイだけがツルツルピカピカしてます イラストの通り 

インドの一部のメンズはデヘヘと触って興奮しています 

2010-08-07 | Posted in ISHIKAWA旅日記Comments Closed 

 

インド デリー3 旅の味

 この投稿は1999年から2001年までのバックパックを背負って世界を放浪した話を書いてます

 『旅の持ち味』には 時々訪れる瞬間の出来事の 時に汗を流して

心を熱くしたり 時に涙を流して 心を震わせたりする といった感覚の覚醒

が旅の醍醐味の1つだが そんな瞬間に至る様々な紆余曲折のスパイス

(素材)は時を経てフっとした時でも滋味として味わうことが出来る

 スパイス(素材)が多いほどその一瞬は絶佳として後の人生のワンシーン

として記憶にベッタリ貼られ スパイス1つ1つは風味として後の人生の糧

としてジンワリ染み込ませてくれる

 自分は常々運が良いと思っている 旅に出ていても色んな”あの時”を

思い出しても やはり運が良かったんだと思う

 運が良いというのは 自分の行ない云々 では無くて ”何故か人に

恵まれた” ということだ それは B.T(before 旅)からそうだった 美容界に

ドップリ浸かった10年間 上司に恵まれ 部下に恵まれ お客さんに恵まれた

なので 美容しか見ていなかった そのせいなのか美容以外の情報は

温められた牛乳の膜ぐらい うすうす であったから そんな自分が世界に

旅へ出てみると うっかりも災いして それはそれはあまりにも知らない

世界が多すぎた ナイトライフにおける ”計画のうすうす(0.02mm)” は

大事だけれど 旅における ”計画のうすうす ”はあまりにも無責任であった

今 旅を思うと ”無計画の外だし(外国に行ってから考えること)”であった事に

冷や汗が出る それで(出)来てしまった プルプルのロングコートチワワ

(癖毛の自分)でも世話をしてくれる人はいっぱいいたのだった

 今思うとその日も人との出会いで大きく旅の醍醐味となる時だったと

思う

 パキスタンヴィザとりを無事に終え翌日そのテンションをエクステンション

し中国大使館に向かうも 少しばかり勝手が違う中国ヴィザに四苦八苦

していると 後ろにヒゲヅラの男性(推定30歳)が立っていた 顔の

50%は漆黒の毛で覆われていたが手にしているパスポートは赤い10年用

の日本のパスポートだった ここでも又 プルプルのチワワに戻っていた自分は

目を潤ませて そのヒゲヅラのつぶらな瞳の男性に申し込み書の判らない所を

聞く ぶっきらぼうであったが明確に説明してくれ 無事申告を済ませ

大使館を後にする すると 前方にさっきのヒゲヅラのサラサラヘアーの

男性と小っこいロングヘアーの女の子(推定25歳)がバスを待っていた

”この辺”は今の時間はバスと時たま流しているオートリキシャーしか

走っていなく 人は見当たらない そのままバス停で追いつくような形に

なるが2人に交わることもあまり無くメインバザールで別れたのだが

数日を経て預けたヴィザを受け取りに中国大使館に行くと 又

あの時のヒゲヅラのわりに小奇麗な男性と小っこいロングヘアーの女の子が

いた 再会の挨拶を程々にパスポートを待っている時だった 行列に並ぶという

モラルはワールドスタンダードであっても必ずしも どの国にも当てはまる事

では無い その当時インドでもしばしば列を乱すという 無秩序がこの上ない

事があった この時ここ中国大使館内もそうであった 列の秩序が乱され

いよいよ収集がつかなくなってきた時 ふいに 小っこいロングヘアーの女の子

が大声で仕切り始めた それはそれは見事な仕切りっぷりであった 小っさい

女の子が大の大人の男達を仕切りまとまっていく様子は痛快であった が

何も出来ない自分が情けなくも思っていた

『おー!!』とヒゲヅラの関西弁(正確には讃岐弁)の男性と彼女の偉業を

称えていた 急に2人との仲間意識が高まりそのテンションのまま

帰りのバスではお互いの情報を交わしていた そしてそのテンションを

エクステンションしてヒゲヅラの伊藤君(28歳)の髪を切ることになり

偶然にもバラナシの宿で一緒だった永井君(28歳)も再会して彼の髪も

切っていた 暫く続く旅の仲間との出会いであった 

 旅の醍醐味となる隠し味がパラリ振られた時でもあった

 旅のオマメ

 小っさいロングヘアーの女の子……この旅日記を偶然読んで”これって私じゃね?と思ったあなた! ktmiskw@hotmail.com まで連絡ください 髪を切る約束をはたせないままに今に至ります もう女の子ではなく素敵な女性になっていることと思います

2010-07-16 | Posted in ISHIKAWA旅日記Comments Closed 

 

インド デリー2 ヴィザ取得

この投稿は1999年から2001年までのバックパックを背負って世界を放浪した話を書いてます

 デリーも勿論 陽が強く暑い しかしまだ暑さは殺人未遂的な午前中

パキスタン大使館へ向けてバスに揺れていた ヴィザを取る為だ

 今までの東南アジアやインドのヴィザは国境で取れたり旅行会社に

代行してもらっていた アジアの各場所で旅人との会話の中にヴィザ取の

面倒臭さを 『ウンウン』』と同感の姿を見せていたが実は大使館に行くのも

自らヴィザをとりに行くのも初めての試みであった

 外の景色と地図を交互に見ながらバスのルートを指でなぞり ”この辺”

というところで下車 見通しのよいこの辺をぐるり見渡す

メインバザール周辺での排気ガスとCo2 クラクションと怒声が織り交ざり

ガラムマサラな状態が  ”この辺 ”は さっき下車したバスが小さくなって

去って行くまでを目で追って見え 人影より木陰が多い多い所だった

 綺麗に区画された広い路と路の間は緑が眩しい芝生に水がまかれ

公園の緑は深い そんな所に各国の大使館が所々重々しく建っている

 各大使館をグルリ囲む塀には有刺鉄線だの 槍を思わせる物だの 

ガラスを塗した物だの に監視カメラだのが物々しく外部とのイリーガルの

接触に鉄壁のガードをしていた 目に優しい緑と大使館のコントラストは

「お金持ちの場所」 とボンヤリ思わせていた

 パキスタンのヴィザを取る為には 日本大使館が発行する紹介状(レター)

を貰わなければならない このレターが無いとパキスタンのヴィザが

貰えないという なんだかエラソーな病院みたいなシステムだった

 日本大使館に行きレターを出してもらい そのままパキスタン大使館に

行きボディチェック パスポートチェックを受け建物内部に入ると

思っていた程の混雑は無く手続きも割りとスムーズに進み 『今日の

15時以降に取に来い!』 とのことだった (ヴィザはパスポートにシール

として貼られる) なんだか拍子抜けしてしまった 旅人からヴィザ取の

面倒臭さのうんざりした顔にイギリス大使館に並ぶ大行列を見てシンクロ

してたからだ

 大使館を出てパスポートが戻ってくるまで5時間ほどあるが ”この辺”

には旅人にとって心をそそるものが無かったので再び宿の方に戻る

 先日のデリーに着いた朝とうって変わってメインバザールは人で

いっぱいであり 物でいっぱいであり そして太陽光線もいっぱいであった

アスファルトが日本の企画と違うのか 日差しが日本と企画が違うから 

なのかサンダルにアスファルトがペト付く サンダルの裏にガムやテープが

付いたような感じだった メインバザール周辺をペトペト ウロウロ時間を

潰していると いつも同じ顔にしか見えないインド人達の中に 違和感を

感じる人が目に入り脳ミソに引っ掛かる ロンパッた目の彼は

” サトシ ”(インド カルカッタ2 参照)だった なにやら商談している

様だったが 『サトシー!!』と声の勢いで丸っこい背中をバンバン叩く

 『なんやー?!』 今さっきまでベンガル語だかヒンディー語だかブンディー語

だかを早口でしゃべっていたのだが サトシ→日本語とスイッチが変わる

のだろう 振り向き答える これまで何人かサトシと遭遇

したのであろうか 冷静な日本語で帰ってきた 『おー オマエ!!』

ちなみにサトシは日本人相手に”オマエ”と とても便利にひとくくりしていた

カルカッタでの自分(イシカワ)を世話したことを気づいたかどうか解らないが

サトシは話に合わせのってくれた インド国内の人口は9億人を超していて

その中で違う場所で再び出会ったサトシに興奮してしまい商談も終わった

ようなので 立ち話もなんだからと言って バックパッカー御用達の

ゴールデンカフェ”に誘って入る サムズアップを飲んでると サトシと解る

パッカー達が挨拶してきた やはり有名人であった 自分は同じテーブル

にいるだけで なんだか自慢であった 

サトシは仕入れに来ている とのことだった 大量に仕入れた物の隙間から

以前サトシから買った布(インドの神様の絵が描いてある)も大量に見える

カルカッタ(現 コルカタ)にいた時 サトシから買ったその布は

インドの神様を指差して 『俺の手描きやねん!』 

と自慢風にいってたので 『へー』 と感心して買ったのを思い出していた

、、、、、、、、、しかも4枚 有名人のサトシと一緒にいることで自分も

一緒に有名人になった錯覚し心がインド洋並みになっていたので

かわいい嘘だったんだなあ、、、ということで終わりにした

 サトシと別れ街をペトペト ウロウロしていると15時近くなっていた

再びパキスタン大使館に向かう 陽は殺人的な程になり 凸凹の無い

道路に逃げ水が揺れ その向こうにインド門がボンヤリ揺れて見える、、 

キンキンに冷えたクーラーの部屋でパスポートを受け取り ヴィザを確認

する と同時に胃がキューっとして下腹部がモヤモヤし尻にジンワリ汗をかく 

ボンヤリだったアジア横断が本格的になった瞬間だった

 旅のオマメ

 ガラムマサラ…..香辛料を絶妙に混ぜたもの ミックススパイス

 

 ゴールデンカフェ…..個人的にラムライスが美味しかった ゴハンの上に細く切ったラムにソースがからめてある ビーフストロガノフにちょっとだけ似てすごく否なるもの 欧米のパッカーはよくビールを呑んでいた

 サムズアップ……炭酸清涼飲料 たしかコーラみたいな飲み物だった

 インド門……..第1次世界大戦で戦死した兵士を追悼する慰霊碑

2010-07-09 | Posted in ISHIKAWA旅日記Comments Closed 

 

インド デリー1 インドで自分も考えた

この投稿は1999年から2001年までのバックパックを背負って世界を放浪した話を書いてます

 バラナシ駅を夜出発しインドの首都デリーのニューデリー駅に着いたのは 

朝7時であった 朝7時というと人々の出勤時間と重なりムンバイ以来 

であろう  ピチッとYシャツをズボンに入れ7:3の横分けかオールバック

のビジネスワーラー(マン)が颯爽と闊歩していく中反対方向にヨロヨロ歩く

 日本に銀座という所があるなら金座があるようにデリーにニューデリーが

あるならオールドデリーという所もある 旅人はだいたいニューデリー側に

ウロウロたむろしていることが多い 何かとコンビニエンスだからだ

 オールドデリーはオールドだけに昔からある街で歴史的建造物が

多いようだが行っていないので知らない インドの建造物は既にお腹いっぱい

であり消化不良を起こし胸焼け気味であった

 デリーに来た理由はただ1つ パキスタンと中国のヴィザを取る為だ

 デリーはインドの首都だけに各国の大使館がサモサの中身のジャガイモ

のごとくゴロゴロある 事務業務の為に出張に来たビジネスマン(ワーラー)

の心持であった

 ニューデリー駅から徒歩数分という所に メインバザール という

バックパッカーが集う通りがある 両替屋があり お土産屋 インターネットカフェ

安食堂などが軒を連なり 安宿が多く点在している

 バンコクのカオサン通りやカトマンズのタメル地区のような場所だ

 メインバザールの朝はゆっくりノンビリしていた そしてなにより静かだった

小さいカラスやノラ犬が残飯をあさり 子供が柄のない箒で店の周りを

掃除している 通りはまだ広く使えど真ん中をヨロヨロながらスイスイ進む

 とりあえず宿だ 旅をして知ったことだが世界の宿の中には

チェックインチェックアウトを24時間制にしているところがある

チェックインした時間の24時間後がチェックアウトの時間で1泊となる

たとえば朝早くチェックインできるがチェックアウトは翌日以降のその前の

時間までに部屋を出るか もう1泊分払って出発に合わせることになる

 朝8時を過ぎてチェックインできてもチェックアウトの時間を考えると

もったいないような気がして辺りをウロウロヨロヨロ彷徨っていた

 インドの安宿は30~100Rs(ルピー)程であったので日本のコインロッカー

より安いのだがその当時(’99)たかが約105~350円のことでケチって

考えていた 寝不足がたたみ掛け判断力も鈍ってはいたが 今(2010)

思うと実に無駄なエネルギーであった バックパッカー=貧乏旅行という

トラップにまんまとはまっていた 勿論お金は減っていくばかりであったが

色んな所へ行って 色んな体験が出来たらいいのであって長く旅をする

ことは二の次であった 長い旅をするからこそ色んなものが見れると思うが

やはり自分はそうではなかった気がする 当たり前だがお金をかけた分だけ

見れる世界も 又 あるのだ 

 さんざんウロウロヨロヨロ彷徨ったあげく24時間制の宿にチェックイン

 バラナシではドミトリー(相部屋)であったが今回は個室だ 反 反発ベッドに

寝転がって改めて旅のルートを考えていた 実はインドを抜けてからのルート

というのはパキスタンに入り中国に抜けそこから中央アジアの国々を廻って

トルコに入る というルートや中国からロシアに抜けてシベリア鉄道で一気

にヨーロッパなんてのも考えていた

 結局は漠然としたものだった

 持っている旅行人の『アジア横断』はインド~パキスタン~イラン~トルコ

のルートしかなく中央アジアやロシアは持ってきたユーラシアの地図しかなく

(中国はチベットの憧れがあり旅行人の『チベット編』を持っていた)

旅のルートを指でなぞってもなぞってもなーんにもアイディアは出てこなかったし

情報は入ってこなかった  

 「畳水練」であり「机上の空論」であり地図上の空想であった

 ロシア(ソ連)の映画や美術が好きであったことや中央アジアの

シルクロードに悠久のロマンを感じる、、、、といったこともあったが

アジア横断のインド パキスタン イラン トルコの黄金ルートと違った

場所から横断したかった というのが漠然の大半を占めていた

エルドラドは別にある そう漠然と考えていた

 まぁとりあえずパキスタンと中国のヴィザだな、、、とぼんやり思いながら

いつの間にかウツラウツラしていた

 慣れた自信の驕りも怖いが無知の自信も恐ろしい

 旅に出てビギナーバックパッカーにしてはあまりにも無謀なことが

多かったが 今思うと運に恵まれていたと思う その1つがこのデリーでの

出会いや再会がきっかけだった

 この頃はまだそれに気づいていないベッドの上であった

 旅のオマメ

 金座….. 江戸幕府において金貨の鋳造あるいは鑑定 検印を行った場所あるいは組織 東京では日本銀行のある辺りが金座

 ヴィザ…..査証 入国許可申請書みたいなもの 必要であれば外国人が入国する前に必ず取得しなければならない 発行は大使館や領事館(在外公館) いる国といらない国があり また 在外公館によって取得発行日数や入国滞在日数 手数料が異なりバックパカー同士ヴィザの状況の情報交換が話の中によく出てくる たまにヴィザマニアなるものが存在する

 サモサ….ゆでて小さく潰したジャガイモとグリーンピースなどを香辛料で味付けし小麦粉で作った薄い皮で三角形に包み揚げたインドの軽食 旨かったなー、、、

 カトマンズのタメル地区…..デリーのメインバザールみたいな所

 畳水練….理屈ばかりで実地訓練が欠けている為実際には役にたたないこと 同意味語で机上の空論

 ロシア(ソ連)の映画….惑星キンザザ ゼロシティーがわりと好きです

 エルドラド…..黄金郷 

 

2010-07-02 | Posted in ISHIKAWA旅日記Comments Closed 

 

インド バラナシ4 さらばヘインズ

この投稿は1999年から2001年までのバックパックを背負って世界を放浪した話を書いてます

「Tシャツ」 マーロンブランド ジェームスディーンを経て下着からストリート

ファッションのマストアイテムへと番付の格が一気に上がった

 この旅日記を読んで頂いているお客さんから

『今の若い子はヘインズ≒Tシャツってことがわからないんじゃない?』

そんな 何気ない質問にポカンと 「猫だまし」を喰らったように思えた

ヘインズやフルーツといったらTシャツだと当たり前に思っていた自分は

どうやら若者達には何のことか解らないのだという、、、、

かなりのうっちゃり感であった 心に張り手を喰らった気分だった

時代は過ぎていく

”おじさん”もろだしだが これからもこのスタイルをつっぱりたいと思う

 で 我がヘインズの話

 旅に出て”旅の相棒”(荷物)が少しずつ増えていくと同時に

壊れたり 失くしたり 捨てたりしたものもあった

腰に着けていたキーホルダーは待合の椅子に引っ掛け切れてしまい

干していたトランクスは風に吹かれてどこかに行ってしまった

3桁の数字を合わせて開ける鍵はドイツ人に90秒で目の前で開けられた

のをきっかけに鎖と南京錠へと変わった、、、、、

 又 旅の相棒達はそれぞれ旅に染まっていった

真っ白だったハラマキ型の貴重品入れは無印良品ばりの”生成り色”になり

ノースフェイスの黒のバックパックはやや灰色が増し

そして我がヘインズは首周りと袖口がかなりダブついて 手洗いでは

落ちきれないナゾの染みが増えていった これまたナゾだが3枚とも

同じような状態であった、、、、

 アジアで見かけていた旅人が着こなしていた服が ”クルタパジャマ

だと知ったのはインドに来てからだった インド人はカチっと旅人はダラリと

着こなしていたかっこよかった さまざまな色のクルタ(シャツ)はテロテロして

インドの灼熱な大地にどの色も馴染んでいるように思う、、、

 外国人が漢字のTシャツを着ているのはどう思っているのだろうか?

ハルクホーガンが『一番』Tシャツを着て一気に漢字Tシャツは広がった

のだと思う(更に数年前にはロンドンで漢字ブームは既にあったと記憶します)

B.T(Before旅)漢字Tシャツを着ている外国人を見るたびに なんだか

違和感を感じていた シャンゼリゼ通りのオープンカフェの最前列で

お茶するのと同じぐらの『ユルさ』が『カユく』て『ネムく』てゆえに『イタい』

「旅に浮かれている」 そんな風にも思えて勝手に恥ずかしいと思っていた、、、

 そういった心のバックボーンがあってか「旅にうかれている」と自分で

感じるものに弱冠の抵抗を感じていた 旅のコスプレもそうだ!

なんだか異国の格好をするのがが恥ずかしい そう思っていた

が 旅を巡って行くうちにはとうとう南インドで巻きスカート風の『ルンギー』

を巻いてはしゃいでしまった、、、、

今までの冷めた頑なな心のワダカマリは呆気なく溶けていった

インドの灼熱はワダカマリも溶かす

 あれだけ眩しいくらい白かった我がヘインズは日に日に変化していく

我がヘインズは”使い古した”というより”疲労困憊”したという体(てい)だった

手洗いして干していてもユラユラした黄土色のオーラが ヘインズ自身から

漂っているように見えて仕方が無い クルタパジャマの想いが募っていく

インドの灼熱は心も焦がす

ただ我がヘインズの袖を通したのは成田へ出発の朝が最初だった

他の2枚はバンコクが最初だった なんだかゲンを担ぐように捨てられずにいた

 ガンガーに色々な物と想いが流れ過ぎて行くのを見て 我がヘインズも

ガンガーに流してみようと思いたった

 何気なく捨てるより 訳あってガンガーに流したほうがこれまでの旅の

償いを浄化し これからの旅の無事が約束されるように感じたのだ

 3枚中今着ているヘインズを残しガンガーに流す

 ゴミを捨ててると思われるのもシャクだったし はばかる思いもあったので

人けの無い場所まで足を運ぶ ヘインズを丸めて大きく振りかぶって

オーバースロー『えぇっ』 手首にしていた菩提樹の実の数珠も一緒に

放物線を描いてガンガーの水面を大小揺らす 数珠は沈み 

ヘインズはゆっくり流れていく、、、 暫く目でヘインズの行方を追っていた

このヘインズは親父のタンスから引っ張りだしてきたものだった 

お守りのように感じていたのも実はあった

 少し寂しい、、、、、が 足は既にクルタパジャマ屋に向かっていた

さんざん迷い悩み買ったのは赤1枚グレー1枚の2枚のクルタ(1枚60Rs シャツ)

パジャマは黒の2本(1本40Rs ズボン) さんざん値切ったのを試みたのは

さんざんだった インドに来て1番の買い物だったがお気に入りとなった

 このクルタパジャマは以後帰国して農業時代まで共にすることとなる

最後は”朽ちた”といった体(てい)で燃えるゴミとなり火葬された

 旅のオマメ

 ノースフェイス……..アメリカのアウトドアブランド  

フルーツ……「フルーツ オブ ザ ルーム」というアメリカの衣料ブランド ルームはloomと書き『織機』という意味らしい

 ハルクホーガン….アメリカで最も成功したレスラーの1人 日本では「アックスボンバー」で大ブレイク アメリカで ICHIBAN はNO.1の意味で通じる

 クルタパジャマ……インドの男性用国民服 クルタは上着 パジャマはズボン

 農場時代…….帰国後1年半富士山の麓で農業してました

2010-06-03 | Posted in ISHIKAWA旅日記Comments Closed